咲バーバのつぶやき

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北野高校に伝わる「国葬事件」に「国葬」の在り方を考えさせられる!

安倍元首相の国葬が、9月27日に日本武道館で行われる。

27日は火曜日だが、政府は、学校や官公庁などは休みとしない方針と決めた。

9/24の朝刊、一紙面1/4が一気に読めた、とても興味を引く新聞記事を見つけた。

朝日新聞(朝刊)2022年令和4年8月24日25面(矢島大輔、大滝哲彰 記事)

55年前の国葬 僕らは抗議した

大阪・北野高20人の「事件」

「国葬事件」。大阪府立北野高校に伝わる出来事は、関わった生徒たちの人生に大きな影響を与えた。

それから55年。彼らは今も「国葬」について考え続けている。

1967年11月1日。吉田茂元首相の国葬が行われた翌朝のことだ。

授業を欠席した北野高生約20人は、府教育委員会の玄関前に座り込んだ。

弔意を示すため、府立高に対し、半日休校とする通知に抗議するためだ。

手にする抗議文には、それぞれが調べた吉田氏への評価が並んだ。

「米英との戦争には反対したが、中国への侵略には積極的だった」「日米安保条約を結んだ一方沖縄を米軍統治下にして犠牲にした」

評価が交錯する首相経験者に対し、国を挙げて功績をしのび、喪に服する。

中立であるはずの学校が休みになる。

そんな「国葬」に疑問を持った。抗議文を渡そうと座り込んで1時間、府教委の職員は「係に渡します」と受け取り去っていった。

学校に戻る道すがら、だんだん怖くなってきた。

無届けの集会、授業ボイコット、そして府教委への抗議……。

はたして、どんな処分が待っているのか。

うつむき加減で校門を通ると、意外な光景が待ち受けていた。

生徒たちがずらりと並び、拍手をして迎えてくれたのだ。

50メートルほどの列の中には、先生たちの姿もあった。

数日後、保護者呼び出しのうえ「注意」に。

当時、3年生だった内海正三さんは、寡黙な父親が「お前は間違っていない」と激高したことに驚いた。

なだめた母親が代わりに学校に赴くと、こわもての先生が頭を下げ、「生徒はいろんな体験をすることが大切ですね。」と述べ、注意は一切なかったという。

ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんや漫画家の手塚治虫さん、俳優の森繁久弥さんらが輩出した北野高校。

その歴史をつづった「北野百年史」に、このときのことは、「吉田茂国葬事件」と記述されている。

「当時の社会情勢としてこのような行動をする生徒の心理を単純な事件として扱うことなく、学校全体として新しく考えていく出発点」と、職員会議録の内容を伝えている。

内海さんは後で知ったが、父親も、先生も戦争に駆り出され、つらい体験をしていたそうだ。

「彼らの世代にとって、国が特定の政治家をたたえ、国民に弔意を強制することに違和感があったんじゃないでしょうか。」

卒業後、米軍統治下の沖縄から大阪の大学に留学した女性と結婚。那覇市に移住し、印刷会社を営む。

それから半世紀。今度は安部晋三元首相の国葬が持ち上がった。

政府は「日米関係を基軸にした外交」を功績に挙げる。

73歳になった内海さんは矛盾を感じる。

日本に復帰した後も、基地負担は重いままだ。

「いまだに人権無視が続いている。沖縄に対する配慮の無さは、ほとほと嫌になります」元首相の「国葬」への違和感はあの日から今も消えない。

北野高校3年生だった喜多幡佳秀さんも、あの日の「国葬」に影響を受けた。

「大学教員になる」と京都大学を目指し、受験勉強に励んできた。

67年10月8日、ベトナム戦争に反対する学生らが機動隊と衝突し、京大生が1人が亡くなった。大きなショックを受けた。

同じ月の20日に吉田茂元首相が死去し、国葬が決まった。

「国が特定の個人を追悼するのはおかしいのではないか」

心にモヤモヤを抱えていると、国葬当日に食堂で開かれた生徒たちの集会に誘われた。

入学以来「無遅刻無欠席」だったが、授業を欠席して抗議することにした。

胸の高鳴りを覚えた。

しかし、集合場所を間違えてしまい、府教委前の抗議には行けなかった。

悔いはしたが、同じ志の仲間がいることに安心感も抱いた。

その後も授業を休んで仲間たちと政治について議論を重ねた。

京大に進学したが、学生運動に明け暮れた。1年も経つと授業に行かなくなっていた。

その後も大阪市で翻訳や塾講師の仕事をしながら、政治グループで活動してきた。

「おかしいと思ったことに対して、連帯して行動する仲間がいた」

73歳になった今、吉田氏の国葬について「戦後の復興を成し遂げたヒーローとして国民をまとめる大義名分があったのでは」と感じる。

一方、安部元首相の国葬は「私的なにおいがする」と言う。

「権力や立場、自民党内の事情で、岸田文雄首相が国葬を利用しているのではないか」

9月27日は、抗議デモにさんかするつもりだ。

 朝日新聞 矢島大輔 大滝哲彰 記事

この記事を読んでいて、抗議文を府教委に渡し、戻って来た生徒たちを校門から50メートルほどの列で拍手をして迎える北野高校の生徒と先生たちの姿があったことに感動を覚えた。

授業を欠席し府教委に座り込み、「国葬」に対しての抗議文を渡すといった、前代未聞とも言える行動をとった生徒たちの心理を、単純に事件として扱わず、論議し対処した学校側の対応は、当時との社会情勢の違いはあるだろうが、現在においても、教育の在り方を考えさせられるものだと思う。

今日も昼のバラエティー番組で国葬を取り上げ意見が交わされていたが、何んとも薄っぺらな感じがしてチャンネルを変えた。

安倍元首相。52歳で首相に就いたが、07年7月の参院選で敗れ参院で野党に逆転を許すと、9月に自身の体調不良により辞職。

自民党の野党転落後に党総裁として臨み、12年12月の衆院選で政権に復帰。

第2次政権を発足させ、第2次政権以降の連続在任日数も2822日と歴代最長になった。

この長期政権が出来たことで、平成になってから毎年、首相が変わるという状況に、「リボルビングドア(回転ドア)」と悪口として言われていた日本だが、安倍元首相は長期に政権を担っているという評価を海外から得られるようになっていた。

クセのある海外首脳の懐に入って人間関係を築き、日本外交の多くのピンチを救ってきた安倍外交の功績は今も海外から評価されていたことは、安倍元首相の突然の死去に、世界の追悼記事や世界から寄せられる弔意を見れば、安倍元総理が如何に大きな評価と信頼を得ていたかが分かる。

首相を務めて早くから日本人拉致問題に注目し、拉致被害者の帰国の実現に取り組み続けた首相としても、好印象を持っていた私だが、長期政権を握る中での、安倍氏の生前の政治的姿勢に対する森友・加計問題の発覚。財務省による公文書改ざんの発覚。

新型コロナ対応。(安倍のマスク、後手に回る対応)

複数の自民党議員が、旧統一教会の関連団体のイベントに出席。選挙の支援を受けたりしていたことの発覚から、安部首相の関与もあったのではとの疑惑。

それらの事柄から、国民のためにあった首相の姿が、いつしか自民党のための首相であった陰影が、濃く見えてきてしまうことがとても残念に思う。

銃弾によって非業の死を遂げられてしまった安倍元首相。

この事実に、安倍元首相には心よりご冥福をお祈りしたいと思います。